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大阪高等裁判所 昭和42年(ネ)262号 判決

控訴人 金点粉

みぎ訴訟代理人弁護士 松岡滋夫

被控訴人 林勝三

みぎ訴訟代理人弁護士 北山六郎

同 前田貢

同 森田宏

主文

原判決主文第一項をつぎのとおり変更する。

「控訴人は被控訴人に対し金三三万二、五四八円およびこれに対する昭和四一年四月一六日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

被控訴人のその余の請求を棄却する。」訴訟費用は第一、二審とも二分し、その一を控訴人の負担とし、他の一を被控訴人の負担とする。

本判決のうち被控訴人勝訴の部分は、被控訴人において控訴人に対し金一〇万円の担保を供するときは仮に執行することができる。

事実

(双方の求める裁判)控訴代理人は、「原判決中控訴人敗訴の部分を取り消す。被控訴人の請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、

被控訴人代理人は、「本件控訴を棄却する。控訴費用は控訴人の負担とする。」との判決を求めた。

≪以下事実省略≫

理由

一、当事者間に争いがない事実。

つぎのとおり追加するほか、原判決五枚目表五行目の始めから同一一行目の終りまで(原判決理由一項)の記載と同一であるから、みぎ記載を引用する。

追加。

同一一行目の「明渡したこと」との記載の次に句点を置き、その次に、「および控訴人が本件旧家屋を改築して本件家屋を築造したが、みぎ新家屋の各室がいずれも一〇坪(三三、〇五八平方メートル)以下であったこと」と追加挿入する。

二、本件紛争の経過に関する事実の認定。

つぎのとおり変更追加するほか原判決五枚目表一二行目の始めから同七枚目表一〇行目の終りまで(原判決理由二項)の記載と同一であるので、みぎ記載を引用する。

変更追加。

(一)、同五枚目表一二行目から一三行目にかけて「証人劉申述(一部のみ)宮崎定邦、原告本人、証人宮崎定邦、原告本人の尋問の結果」とあるのを、「原審証人劉申述(一部のみ)および同宮崎定邦の各証言、原、当審における被控訴人および当審における控訴人の各本人尋問の結果、ならびに原審証人宮崎定邦の証言および原、当審における被控訴人本人の各尋問の結果に徴し」と変更し、

同枚目裏二行目に「甲二乃至五号証によれば」とある次に句点を置き、

同五枚目裏八行目「嫌がらせらしいこと」の次に「を」を挿入し、

同六枚目裏四行目の「部屋がなかったこと」との記載と次の句点との間に、「(本件新家屋は建坪一一二、二九平方メートル((三三坪九六))二階坪一二六、五一平方メートル((三八坪二七))((鑑定書添付の登記簿謄本により認める))であった事実に徴し、約旨のとおりの一戸を設ける広さがあることは明らかである。)」と追加挿入し、

同五行目に「その提供がなかった」とあるのを、「約旨どおりの部屋の提供がなかった」と改め、

同七枚目裏二行目の「入ったままであること」との記載と次の句点との間に「(みぎ賃料は被控訴人が支払った。)」と追加挿入し、

同四行目に「四人家族であり、」とあるのを「四人家族であること、」と改め、同行目の「被告が提供する」との記載から同六行目終りまでを削除し、

同八行目に「原告との間でなされたこと」とある次に句点を置き、その次に、「ならびに、その後被控訴人は自分の家を買い求め、昭和四二年七月三〇日控訴人が敷金を出してくれた借り部屋から転出したが、その際前記敷金二〇万円から権利金に相当する二万円を差し引いた一八万円が直接にみぎ部屋の貸主から控訴人に返還されたこと」と追加挿入し、

同八行目から九行目にかけて「各事実が認められ」とある次に句点を置き、

同九行目に「証人劉申述尋問の結果(一部)」とあるのを、「原審証人劉申述の証言および当審における控訴人本人尋問の結果いずれも(一部)」と変更する。

(二)、控訴人は同人が被控訴人に対して本件契約の約旨どおりの一戸を提供し、みぎ提供は現在も継続していると主張するけれども、仮に、控訴人が主張しているとおりに、控訴人が本件新家屋のうち間取りの最も広い二戸(いずれも六畳と三畳)の境の壁を取り除いて一戸となし、これを被控訴人に提供した事実があったとしても、みぎの一戸は広さの点のみでも約旨にかなった一戸であると云い難いばかりでなく、昭和四一年二月二五日控訴人と被控訴人との間の本件契約に関する話合が成立する以前にこのような履行の提供に当るものがなかったことは前項で認定したとおりであり、みぎ話合が成立して後は、仮にこのような履行の提供があっても、みぎ話合が後記認定のとおりに本件契約を合意解除するある種の和解契約である以上、既に契約が解除された後の履行の提供として、履行提供本来の効果を生じない。控訴人のみぎ主張は採用できない。

三、填補賠償請求権発生原因の法律的構成

前項認定の事実関係に徴すれば、控訴人は、本件旧家屋の改築または本件新家屋の改造によって本件契約の約旨どおりの一戸を設けるのに要する金銭的支出およびみぎ新家屋にみぎ約旨どおりの一戸を設けた場合に生ずる家賃収益の減少を意に介しなければ、みぎ旧家屋改築の際に約旨どおりの一戸を新設することも、また、みぎ新家屋が一応完成した後にこれを改造して約旨どおりの一戸を新設することも可能であったのであり、また、控訴人が本件旧家屋を買取り改築した事実にかんがみて、控訴人がこのような金銭的支出および減収を負担することは控訴人の資力に余る経済的不能事であるとは考えられないのであって、このような支出および減収に堪えるよりはむしろ被控訴人に損害賠償を支払った方が損失が少いとして、被控訴人に対し約旨に従った貸室の給付をなさず。被控訴人との間に前認定の昭和四一年二月二五日の話合いを成立させたものであることを認めることができるから、本件契約上の控訴人の債務の不履行は履行不能に由来するものではなく、典型的な履行遅滞にほかならない。

そして、前項の認定事実から明らかなように、被控訴人は、控訴人の貸室給付義務の履行期限も既に経過し本件新家屋も一応改築が済んだ後に、控訴人に対して本件契約の約旨どおりの貸室一戸を供給せられ度い旨を催告したにもかかわらず、控訴人はみぎ催告を受けて後可なり長い期間を経過した後になってもみぎ約旨にかなう貸室を被控訴人に対して提供しなかったのであるから、既に昭和四一年二月二五日の話合いが成立する直前には、被控訴人が控訴人に対して控訴人の履行遅滞を理由として本件契約を解除しまたは解除しないで履行に代わる損害賠償を請求するにつき必要な要件は、すべて具備していたと云うことができる。このような状況下で、本件の第一審訴訟(当時は遅延賠償のみの請求訴訟であったが訴訟外で本来の給付を請求していた)の係属中の昭和四一年二月二五日、控訴人の訴訟代理人と被控訴人の訴訟代理人との間に、契約どおりの履行はむづかしいから金銭賠償で結末をつけようとの話合いが成立したのであるから、みぎ話合いの趣旨は、控訴人において履行遅滞をしたことを承認し、控訴人は被控訴人に対して裁判所の認容する額(すなわち客観的な填補賠償額)または当事者間に合意の成立した履行に代わる損害賠償額を支払う旨の和解契約を締結するにあったと解するが相当である。本件の場合当事者間に遂に合意は成立しなかったので客観的な填補賠償額を支払うべく、これは被控訴人がその請求をしたときから履行遅滞となる。

控訴人の主張中には、控訴人はみぎ話合いで遅延賠償の支払いを承諾しただけで填補賠償の支承いは承諾しなかったと主張するもののように解される部分もあるが、遅延賠償は本来の給付の請求とともに請求されるものであるのに、本件の場合は、みぎ話合いによって本来の給付はとり止める旨の合意が成立しているのであるから、みぎ話合いにいわゆる損害賠償とは填補賠償の意味であること明らかである。それ故、控訴人が前記の趣旨の主張をしているとすればそれは筋道の通らない主張と云わねばならない。

四、本件における控訴人の損害賠償義務の範囲

前項で判断したところから、被控訴人が控訴人に対して、本件契約の履行に代わる損害賠償の請求をすることができることは明らかである。

契約解除に基づく損害賠償の範囲(履行期限後の債務者の責に帰すべき履行不能による損害賠償の範囲についてもほぼ同様である。)は、解除当時(履行不能の場合は不能発生時)における目的物の価格を標準とすべきで履行すべき時期の価格によるべきではない(昭和二八年一〇月一五日最高裁判決民集七巻一〇号一〇九三頁。昭和三七年七月二〇日最高裁判決民集一六巻八号一五八三頁。履行不能の場合について昭和三五年一二月一五日最高裁判決民集一四巻一二号三〇六〇頁参照)。また、不動産の賃貸人の債務不履行による賃貸借契約解除(履行期限後に生じた賃貸人の責に帰すべき賃貸目的不動産引渡不能の場合もほぼ同じ)に基づき賃借人が賃貸人に対して請求する賃借権喪失による損害の範囲は、みぎ解除当時における賃借不動産の利用価値の客観的評価額、すなわち当該賃借権の価格(交換価値)によるべきである(昭和八年七月五日大審院判決民集一七八三頁、昭和三七年七月二〇日最高裁判決民集一六巻八号一五八三頁)。

被控訴人は、填補賠償額算出方式として(控訴人は本件の場合を、前記話合いが成立した時点において控訴人の責に帰すべき理由により本件契約が履行不能になったものと解してみぎ賠償額算出方式によったのであるが、契約解除時と履行不能の発生時とが同一であるとすれば契約解除の場合と履行不能の場合とによって填補賠償額の算出方式に相異を来たさない。)、被控訴人が本件契約によって賃借できるはずであった貸室を賃借使用できる期間を前記話合いの成立した時から一〇年間と想定し、その間みぎ賃借目的貸室を使用収益することができないことによって生ずる損害が継続して発生するものとして損害額を算定している。なるほど、本件の場合のような填補賠償額を算出するに当って、賃借権者が賃借物を使用収益することができないことによって生ずる損害がどれほどの期間継続して生ずるかを想定し、みぎ想定期間を基準として填補賠償額を算出することも可能であり、このような算出方式によった例(昭和一〇年四月一三日大審院判決民集五五六頁参照。同判例は履行不能の場合に関するものであるが、契約解除の場合についても理論上差異を生じない。)もある。いづれの方式によっても大多数の場合には賠償額は同一に帰するはずであるが、理論としても一定の賃貸室を提供する契約の解除の場合(履行期限経過後に生じた債務者の責に帰すべき履行不能の場合もほぼ同様である)に債務者の不履行によって債権者に通常生ずる損害(賃借権喪失による損害)はみぎ契約解除時におけるみぎ室賃借権の価額であると解すべきであるばかりでなく、被控訴人主張の算出方式に従えば通常生ずる損害のほかに特別事情による損害が混入して来るおそれもあり、将来の利益の喪失を含む損害額を過去の特定時点における価額として評価する方法としては、客観性を欠くおそれがある(場合によっては将来の利益に内蔵する危険性が評価に表れないなど)ので、当裁判所は被控訴人の主張する算定方式に賛同できない。

被控訴人は本件において填補賠償の上積みして遅延賠償(本件契約中で約定された遅延賠償額の予定額の割合いによるみぎ契約所定の貸付給付期限から前記話合い成立の日までの遅延賠償と予備的にみぎ期間内の遅延による物的損害賠償および慰藉料)の支払いを請求している。しかしながら、本件契約中の一ヶ月金五、〇〇〇円の損害賠償額の予定は、本来の給付の請求と併せて請求することができる履行遅延に対する賠償額の予定であるから、履行不能となったときまたは契約を解除したときの損害賠償額については、填補賠償額を定めるについてはもちろん遅延賠償額そのものを定めるについても、この予定額は標準にならない。また、填補賠償の請求に加えて更にみぎ予定額相当の遅延賠償の請求をすることも通常の場合には許されない。けだし、いわゆる遅延賠償は本来の給付とともに請求する、本来の給付の履行が遅延したことによる損害の賠償であるのに対して、いわゆる填補賠償は(本来の給付の受領を拒絶して、または本来の給付を受けることができないから、請求する)給付に代わる損害賠償であって、両者はその性質を異にし、前者の賠償額として予定された額は後者の額を算定するに付いては何らの参考にもならない。また、契約解除の場合に債務者の不履行によって債権者が通常被る損害は約定された給付を受けられないことによる損害額即ち解除時の給付相当額であって、それ以外に履行期限から解除時までの履行の遅延による損害が追加的に生ずるのは、その事案にそのような特別な事情が存在し且つ履行期に債務者にとって予見可能であるときに限られるばかりでなく、このような遅延賠償額の予定は、本来の給付の履行請求とともに遅延賠償も請求する場合に関するもので、本来の給付を請求しないでこれに代わる賠償を請求する場合に関してまでこのような額の遅延賠償を支払う趣旨ではないと解するのがかかる約定をした当事者の意思に副うからである。

みぎのように填補賠償を請求をする場合には遅延賠償額の予定に基く損害の支払の請求をすることはできないけれども、その事案固有の特別の事情によってこのような履行の遅延による損害が現実に生じ且つその損害について民法四一六条二項所定の要件が具備するならば、みぎ現実に生じ且つみぎ要件を具備する時に限り、債務者の不履行によって債権者に生じた特別事情による損害として債務者にその請求をすることができる。

本件の場合は、前認定の事実関係によれば、新に賃貸借契約を締結して賃借人が始めて賃借不動産の引渡しを受ける場合と異り、賃借人である被控訴人が、賃貸人である控訴人によって本件契約の約旨どおりの貸室の給付が約定の履行期限までに誠実に履行されるものと信じて、従来から賃借使用していた本件旧家屋を一時的なつもりで明け渡し、従来の賃借家屋より狭いのはもちろん、本件契約によって賃借できる貸室よりさえも、遙かに狭く且つ賃料も高額で、内部の設備等も格別優れているとも認められない第三者所有の貸室を賃借して居住することを余儀なくされ、履行期限後も約旨にかなう新貸室の給付がなかったので、更に前記話合いの結果みぎ新貸室が給付されないことが判明するまで、みぎ第三者所有の貸室の賃借使用を続けながら新貸室の給付される日を待っていたという事案である。したがって、被控訴人がその間新貸室の賃料より月額二、八〇〇円も多額な賃料を支払って第三者所有の貸室を借り受けねばならなかったのも、また、被控訴人の家族四人が前記のように狭い第三者所有の貸室に起居し肉体的精神的に少なからぬ不快苦痛をなめなければならなかったのも、ひとえに控訴人の前記債務不履行によって生じたものであって、しかも前記填補賠償の対象となった損害とは別個の、これに追加せられた損害であったことを認めることができる。それ故に、本件新貸室給付義務の履行期限から前記話合いの成立するまでの間の、被控訴人が現実に支出したみぎ余分の賃料と被控訴人が味わったみぎ肉体的精神的苦痛とは、前記填補賠償の対象とは別個独立の控訴人の債務不履行によって被控訴人に生じた特別事情による損害であると云うことができる。そして、控訴人は、前記認定の事実関係によれば本件契約が成立し被控訴人が前記第三者所有貸室に転居した当初から(不履行当時に予見されること勿論である。)、本件契約による控訴人の義務が履行されないときは、みぎ履行のなされるまでの間被控訴人が第三者所有貸室の賃料としての前記余分の支払いと前記肉体精神的苦痛の忍受を余儀なくされることを予見していたと認められるから、被控訴人は控訴人に対して前記期間中の履行遅滞によって被控訴人が現実に被った損害の賠償と肉体的精神的苦痛に対する慰藉料とを請求することができる。被控訴人の履行遅滞を原因とする損害賠償請求は、みぎの限度において認めることができ、その余はすべて失当である。

被控訴人は、以上のほかに、予備的に、控訴人の不法行為または債務不履行を原因とする慰藉料を請求している。

不法行為を原因とする慰藉料請求の請求原因としての被控訴人の主要な主張の要旨は、控訴人は、本件契約を締結する以前から、同契約を履行する意思が全然ないにもかかわらず、被控訴人に対して同契約を履行する意思があるような言動をして被控訴人を欺罔し、且つ暴行脅迫を用いて被控訴人が控訴人の申出を承諾せざるを得ないように仕向け、被控訴人をして本件契約を締結せしめた上、本件旧家屋を明渡させたと云うにある。しかしながら、被控訴人は、本件の第一審以来、終始、本件契約が要素の錯誤により無効である旨ないし詐欺強迫を理由として本件契約を取消す旨主張したことなく、かえって、本件契約が有効に成立したことを既定の事実として、これを前提として、控訴人の同契約不履行を理由とする填補賠償および遅延賠償の支払いを請求しているのである。このように、被控訴人自身がみぎ契約の有効を是認し、みぎ契約の有効を前提とする請求をしている以上、被控訴人自身にもみぎ契約の履行として本件旧家屋を明渡す義務があったわけで、みぎ被控訴人の明渡行為および明渡しによって被むった損害を控訴人の詐欺又は脅迫の結果と云うことはできない。このように、控訴人の詐欺又は脅迫と被控訴人が本件旧家屋の明渡しによって被った損害との間の因果関係は本件契約の締結によって遮断されるので、被控訴人は控訴人に対し本件契約による債務の不履行を原因としてであれば格別、前記不法行為を原因としては、被控訴人が本件旧家屋を明け渡したことによって被った損害の賠償を求めることはできない。被控訴人が本件旧家屋を明け渡したことによって被った損害以外に、被控訴人主張の欺罔行為または脅迫行為自体から直接に被控訴人が被った肉体的精神的苦痛も皆無とは云えないかも知れないが、それが金銭に見積りその賠償を命ずるのを相当する程度に明確且大きな被害であったことは、本件に顕れた全証拠によっても認められない。仮にみぎ被控訴人の主張が、控訴人が本件契約を履行しなかったことが直ちに不法行為に当ると云うのであれば、みぎ主張は独自の見解であって採用できない。よって不法行為を原因とする被控訴人の慰藉料請求はすべて理由がない。

債務不履行を原因とする被控訴人の物的損害および慰藉料請求の一部が認容すべきものであることは既に判断したとおりである。本件契約による控訴人の義務履行期限前において被控訴人が被った肉体的精神的苦痛に関しては、被控訴人は本件契約によってこれを忍受することを承諾したわけであって。もとより控訴人の本件債務不履行によって生じたものではないから、被控訴人は控訴人に対してみぎ苦痛を理由とする慰藉料の支払いを請求することはできない。また、前記話合い成立以後においては控訴人の債務は、一定の貸室を提供する債務から金銭的な損害賠償債務に変ったものであって、その不履行については民法四一九条による遅延損害金をもって満足すべきものにすぎない。よって、債務不履行を原因とする被控訴人の控訴人に対する慰藉料支払の請求は、さきに当裁判所が認容すべきものと判断したものを除いて、その余はすべて失当である。

五、損害賠償額

(一)  填補賠償額

本件の填補賠償額、すなわち、本件契約によって控訴人が被控訴人に賃貸すべきものとされた貸室一戸の賃借権の前記話合い成立時(昭和四一年二月二五日現在)における価格を認定する有力な資料としては、当審における鑑定の結果(以下本鑑定と略称する)がある。

本鑑定は後記のように変更すべきものであるが、その前に本鑑定に対する被控訴人の非難について順を追って判断することにする。

(1)  本鑑定には鑑定の対象を取り違えた違法はない。

本件契約の条項によれば、控訴人が被控訴人に対して賃貸使用させることになっている新貸室は本件旧家屋を改築して作った本件新家屋、すなわち中古家屋中の一戸であって、被控訴人が主張するような新築家屋またはこれと同視できる家屋中の一戸ではない。みぎ契約がみぎ新貸室の賃料について、「他の同種の貸室の三割引とし、かつ一ヶ月の賃料が五、〇〇〇円を超えないものとする」と定めているところからも、当事者が本件契約において控訴人から被控訴人に賃貸すべきものとした新貸室は、それと同種同程度の貸室が本件新家屋中にあり、これを普通に貸すとしたら、その賃料額は三割引して五、〇〇〇円になる額またはそれを多少上廻る額であると考えていたことがうかがわれ、当事者双方とも当初から本件新貸室が被控訴人の主張するような諸設備の完備した貸アパートの一戸であることを予定していなかったことが認められる。したがって、本鑑定が、本件貸室の賃料および敷金について、他の新築貸アパート内の同種貸室より(後記のとおり評価基準時が三年前であることも含めて)二割安と判断しているのは相当であって、被控訴人の非難は相当でない。

(2)  本鑑定が、本件新貸室の給付期限に当る昭和四〇年二月現在のみぎ新貸室の賃料、敷金および賃借権の価格を鑑定していて、前記話合の成立した昭和四一年二月現在の賃借権の価格を鑑定していないこと、ならびに填補賠償額を算定する場合には、契約解除時または履行不能発生時の賃借権の価格によるべきで、目的物の給付の履行期限によるべきでないことは被控訴人指摘のとおりである。しかしながら、本鑑定は、本件新家屋が他の貸アパート内の貸室と比較して材料構造等の点で比較にならぬ位劣っていることと三年前の価格を鑑定するものであることとを合せて考慮し、他の貸アパートの同種貸室の二割引の敷金賃料額を相当としているのであるから、三年前の価格の鑑定であることのみによって割引された割引率はその一部であり二年前の価格を評価すべきであるのに三年前の価格を評価したことによる誤差は更にまたその一部であることが認められる。みぎ一年の期間中に本件賃借権につきみぎ限られた範囲の価額の値上りのあったことは認められるが、みぎ一年間の値上りの具体的な額については被控訴人の提出援用に係るすべての証拠によってもまたその他の証拠によってもこれを明確にすることができない。このように、みぎ一年間の値上りの具体的額を確定できないのは被控訴人が立証義務を尽さないからであり、本鑑定によっても、現実に生じた損害額の範囲内で、しかもみぎ現実の損害と比較して限られた範囲内の誤差があるだけの損害額が認められるから、みぎ誤差があるために本鑑定が本件の填補賠償額を認定する証拠としては不適当である旨の被控訴人の本鑑定に対する非難は相当でない。よって本件の填補賠償額は本鑑定に準拠してこれを認定することとし、これを超ゆる部分(前記一年間の値上り部分)はその証明がないものとして排斥する。

(3)  本件新貸室の給付義務の履行に代わる賠償額を算出する基準としての賃貸借期間を五年としたのは相当である。

なるほど、賃借人に有利な賃貸条件の賃貸借においては、賃借人は容易に他に転出しない。しかしながら、旧家屋について賃借権を有した者が、旧家屋の改築のために他に転出して、数月後みぎ改築による新家屋が完成した後に、その者が旧家屋について賃借権を有していたことおよび改築のために一時他に転出すると云う犠牲を払ったことのために、新家屋について賃借権を認められ、しかも新家屋の他の賃借人と比較して敷金、賃料等の点で可なり有利な取扱いを受ける契約があっても、みぎ旧家屋に賃借権のあった者がみぎ理由のために新家屋の賃貸借に関してみぎのような有利な取扱いを受ける権利を有するのは、本鑑定の掲げるアパート貸室の平均賃貸年限その他諸般の事情を考慮して、平均五年間であると認めるが相当である。みぎ五年を経過するとみぎ賃借人はみぎのような有利な取扱いを受けることができなくなり、このような有利な取扱いを受けることができなければ、敷金を入れ家賃さえ払えばこの種貸室などいくらでもある昭和三九年以降の阪神地方では、この種貸アパートの貸室には賃借権の価格など皆無に等しいことは当裁判所に顕著な事実であるので、賃借権の価格を算出する場合には、前記のとおり有利な取扱いを受け得る期間すなわち五年を賃貸借期間と認めるのが相当である。結局本鑑定がみぎ賃貸年限を五年として賃借権の価格の算出に用いているのは、当裁判所の見解と理由こそ異なるが結果においては相当である。この点に関する被控訴人の非難は結局において失当である。

(4)  本鑑定が賃料について最高五、〇〇〇円との制限があることを考慮に入れないで賃借権の価額を算出していることは被控訴人の所論のとおりである。みぎ賃料最高額の制限の存否は本件の填補賠償額、すなわち本件新貸室の賃借権の契約解除時(昭和四一年二月二五日の合意解約がその実質において契約解除と同視すべきものであることは既に説明した。)における価格の形成に影響があるので、本鑑定の理由(6)の数式は次のとおり改められる。

(9,300円-5,000円+1,670円)×12=71,640円

(新貸室の実質月額賃料) (同支払賃料) (無敷金の利益) (年間利益)

71,640円×4,212 301,748円

(年6分の割合による5年間の年金現価率) (賃借権の価格)

本鑑定のうち右部分および賃借権の価格の額を除く部分はすべて正当として証拠に供することができる。

よって、本鑑定を根拠として、当裁判所は本件新貸室の賃借権の昭和四一年二月二五日現在(契約解除と同視される合意解約の日)における価格すなわち本件填補賠償額を金三〇万一、七四八円と認める。

(二)、遅延賠償額

本件の場合、被控訴人が控訴人に対して特種事情によって生じた債務不履行による損害の賠償請求として履行期限から契約解除と同視すべき話合成立の日までの間に現実に生じた物的損害の賠償とその間の慰藉料を請求することができることは既に説明したとおりである。

本件における現実に生じた物的損害額は本件新貸室の最高賃料額一ヶ月金五、〇〇〇円と被控訴人が第三者所有の貸室の賃料として支払った金七、八〇〇円との差額一ヶ月金二、八〇〇円である。しかし、みぎ第三者所有の貸室が被控訴人の旧住居や将来賃借できる予定の新貸室よりせまいことによって被控訴人が多少の肉体的精神的苦痛を受けたことは否定できないが、被控訴人はみぎ第三者所有貸室入居の当初そのせまいことを承知で入居し、その後もこれに居住していたのであるから、みぎ肉体的精神的苦痛は未だ金銭的賠償をもって償うことを必要とする程度に著しいものであったとは認められない。本件の貸室給付期限(昭和四〇年三月二二日)から契約解除と同視すべき話合いの成立の日(昭和四一年二月二五日)まで約一一月であるのでその間の前記損害賠償額の総計は金三万〇、八〇〇円となる。

よって、被控訴人の控訴人に対する本件損害賠償請求権の額は合計金三三万二、五四八円となる。

相殺の抗弁について。

既に理由二項(原判決引用部分)で認定したように、本件旧家屋明渡の際の契約中に、被控訴人が本件旧家屋内の住居から転居する住居として控訴人が提供する前記文化住宅の一二の敷金の金利、その明渡の際に差引く権利金等は一切控訴人が負担する約定があり、控訴人は同人が差入れたみぎ敷金二〇万円のうち権利金二万円を差引いた残額一八万円を受取っているから、控訴人主張の相殺の自働債権は存在しないこと明らかである。本抗弁は理由がない。

六、結論

よって、被控訴人の本訴請求のうち金三三万二、五四八円およびこれに対する被控訴人の請求拡張申立書が控訴代理人に交付された日(みぎ申立書をもって始めて本件契約の本来の給付に代わる損害賠償が請求された)の翌日(昭和四一年四月一六日)から完済に至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める部分は正当であるのでこれを認容し、その余の部分は失当としてこれを棄却すべきである。本件控訴はこの範囲で理由があり、原判決は変更を免れない。

よって民訴法三八六条、九六条九二条一九六条を適用し主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 宅間達彦 裁判官 長瀬清澄 古崎慶長)

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